今回は、私の友人である JH7VHA 柴田さんから投稿いただいた、沖縄戦と通信兵にまつわる貴重な内容をご紹介します。
2025年の今年は、第二次世界大戦が終わってからちょうど80年という節目の年です。戦争の記憶が少しずつ風化していく中で、あの時代に通信という任務を担った方々の姿を、私たちアマチュア無線家こそが改めて見つめ直す必要があると感じています。
実は私自身も、戦後80年の節目に『特攻基地の少年兵 ― 海軍通信兵15歳の戦争』という本を Amazon で購入し、少しずつ読み進めているところです。当時の若者たちがどのような状況で戦火を生き、どんな思いで通信任務に就いていたのか、胸が締めつけられる思いでページをめくっています。
柴田さんの記事では、沖縄戦末期に大田實少将が送った「訣別電報」について、通信兵の視点から綴られています。無線という手段が、命の最期の瞬間にも使われたという事実は、私たちに多くのことを語りかけてきます。
それでは、柴田さんの記事をご覧ください。
沖縄県民斯ク戦ヘリ
今から80年前の1945(昭和20)年 3月26日から沖縄戦が始まり、6月23日に終結しました。
多くの県民が犠牲になりました。
硫黄島に続いて、沖縄が外国に奪われました。
大田實少将
昭和20年6月6日、沖縄の海軍司令官 大田 實(おおた みのる)少将は
大本営に、沖縄県民の祖国に対する献身的な犠牲に対し
「後世特別の配慮を」という内容の訣別(けつべつ)電報を送りました。
その数日後 「本拠地隊ハ玉砕ス」と打電して、海軍司令部壕内で自決しました。
海軍司令部壕とは、沖縄の重要な軍事拠点であった小禄飛行場(現那覇空港)近くの地下壕です。
旧海軍司令部壕の無線機(再現品)
《原文》
062016番電
発 沖縄根拠(こんきょ)地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電■■次官ニ御通報方取計(とりはからい)ヲ得度(えたし) (■は判読不能)
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ
本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ
現状ヲ看過スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ
殆ド 顧ミルニ 暇(いとま)ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ 県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ
残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ
僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支(さしつかえ)ナキ場所ノ小防空壕ニ避難
尚砲爆撃下■■■風雨ニ曝(さら)サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊(ほうすい)婦ハモトヨリ
砲弾運ビ 挺身(ていしん)斬込隊スラ申出ルモノアリ
所詮 敵来リナバ老人子供ハ殺サレルベク
婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄リ無キ重傷者ヲ助ケテ■■
真面目ニテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ
自給自足 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者
黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終止一貫
勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ■■ノ悪評ナキニシモアラザルモ)
只管(ひたすら)日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ
遂ニ■■■■与ヘ■コトナクシテ 本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形■■■■■■
一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ
《現代語訳》
昭和20年6月6日 20時16分
発信 沖縄根拠地隊司令官
宛先 海軍次官
次の電文を海軍次官にお知らせくださるよう、取り計らってください。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが
私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが
県にはすでに通信する力はなく
32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので
現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては
ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。
しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のため駆り出され
残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ
わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり
砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。
しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより
防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。
敵がやってくれば、老人や子供は殺され
女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと
親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい
身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。
このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。
さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時
輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来
県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約を強いられ
ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら
ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。
一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい
食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をしてくださいますように。
原文
判読不能■■部分
石碑
沖縄戦状況
荒川一登通信兵
この電文を打電した荒川一登通信兵も最後に大田司令官と共に自決したのでしょう。
荒川通信兵が送信した電報は、鹿児島県鹿屋海軍航空基地の電信室で受信されました。
通信兵はこの「訣別電報」と特攻機からの「最後の電信」 両方を受信したのです。
どんな気持ちだったか、想像すらできません。
現代に生きる私たちは、「沖縄に特別の配慮」をしなければなりません。
この記事をご覧になった1人でも多くの方々が、同じ気持ちになるよう、願いを込めて
電信を打ちます。
旧日本海軍の電鍵です。
「二度とこのような悲劇を繰り返すことのないよう」
沖縄戦で犠牲となった全ての御霊に哀悼の意を込め、打ちます。
「ニッポンハ セカイイチ ヘイワデ ユタカナ クニニ ナリマシタ ヤスラカニ」
「セカイヘイワヨ エイエンナレ」
■ ■ ■
この記事を読んで、戦時中に通信兵として任務を全うした方々の姿に、改めて敬意と哀悼の念を抱かずにはいられませんでした。
私たちは今、無線を趣味として楽しむことができる平和な時代に生きています。しかし、その「当たり前」の裏には、当時の通信兵たちが命をかけて電波を打ち続けた歴史があります。
記事の最後にあった、「ニッポンハ セカイイチ ヘイワデ ユタカナ クニニ ナリマシタ ヤスラカニ」という柴田さんのメッセージ。これは、現代を生きる私たち一人ひとりが、大切に心に刻むべき言葉ではないでしょうか。
JH7VHA 柴田さん、貴重な投稿を本当にありがとうございました。