JH7VHA の柴田さんより記事をご投稿いただきました。
柴田さんには、日頃から無線に関する深い知識と経験を共有していただいており、今回の記事も非常に興味深い内容となっています。
本記事では、今から 80 年前の 1945 年 3 月に行われた「硫黄島の戦い」における通信兵の役割について詳しく掘り下げています。硫黄島の戦いは、日本の歴史の中でも特に過酷な戦闘の一つとして知られていますが、その中で通信兵が果たした重要な役割については、これまであまり語られてきませんでした。
無線通信がどのように戦況を左右したのか、また戦時下の通信環境がどれほど過酷だったのかを知ることは、アマチュア無線を愛好する私たちにとっても大変意義深いことです。柴田さんの記事を通じて、当時の通信技術や通信兵の奮闘について学び、改めて無線の価値を考える機会となれば幸いです。
それでは、柴田さんの記事をご覧ください。
2025年3月26日 「硫黄島(いおうとう)の戦い」終結から80年。
今から 80 年前の 1945(昭和 20)年 3 月、東京都小笠原村硫黄島で
約 2 万人の日本兵が、亡くなりました。世に言う「硫黄島の戦い」です。
詳細は、他の文献にたくさん記載されていますので
今回は通信兵に特化した事項について、述べたいと思います。
硫黄島から 1200 Km 離れた東京の大本営への通信は、通常、父島で中継されていました。
使用周波数は、4500 ~ 20000 KHz と思われます。
栗林忠道 中将
1945 年(昭和20年)3 月 16 日午後 4 時過ぎ
硫黄島守備隊最高指揮官、栗林忠道(くりばやしただみち)中将は、総攻撃の前に
大本営へ訣別(けつべつ)電報を送りました。
「膽参電第四二七号」(膽:タン)
発信は、「膽部長」(第109師団 通称 膽 栗林)発 電報 第427号で
着信は、「参謀次長」(大本営)
本文最後の辞世
「国ノ為重キ努ヲ果シ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」
この電報は、「海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所」で受信されました。
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を中継した、通称「稚内赤れんが通信所」です。
通信兵は、こみ上げる涙と共に、大本営へ中継したと、伝えられています。
無線電信による電報は、正確性を確保するため、種類、字数、発着信局、番号、時間等
が記載され、照合が行われ、暗号変換され交付されます。
決別電報を送信後、暗号書は焼却されたため、以降すべて平文で送信されました。
通信兵たちは、別れを伝えたい大切な人たちへの、膨大な電文を送信し続けました。
「アンゴウシヨ ヤイタ」
「○○マチ ○○バンチ」
「△△ニヨロシク」
「オセワニナリマシタ」
「♡♡子 幸セヲ希フ(ねがう)」 ・・ー・ー ・ーー・ ーーーー
訣別電報を受信した「大本営」は 21 日に、「17日 硫黄島の我部隊 通信絶ゆ」と発表しました。
栗林中将の辞世は
「國の爲重きつとめを果し得で 矢彈盡き果て散るぞ口惜し」
と改変されて、新聞に掲載されました。
「悲シキ」は検閲されたのです。
同日、「通信絶ゆ」したはずの硫黄島から、電信が発信されました。
内容は、奮闘した硫黄島守備隊の玉砕した兵士たちへの殊勲上申でした。
23 日「総員壮烈なる戦死」をしたはずの硫黄島から父島に電信が入感し始めました。
「ホシサクラ 300 ヒガシダイチニアリテ リュウダンヲオクレ」
ホシサクラとは、陸軍=ホシ、海軍=サクラという意味です。
栗林最高指揮官の指示により、21 日以降の戦闘状況が克明に記されていて
内容は、本土決戦に備えるため、敵の人数、装備、攻撃方法等の戦訓でした。
大本営が「総員戦死」を発表した後も硫黄島の兵士たちは
祖国のために任務を続けていたのです。
元同僚の父島の通信兵から返信がありましたが、硫黄島の通信兵は
「マテ マテ」「ジカンガナイ」
そう言って、送信し続けました。
飢えや乾きの中、気力で体力を振り絞り、電鍵を叩いたのです。
そして 23 日 午後 5 時 お別れの電報
「父島ノ皆サン サヨウナラ」
送信は、途切れました。
26日 栗林中将以下 300 名余りが最後の総攻撃を敢行し玉砕
日本の領土である硫黄島が外国に奪われたのです。
2000 機を超える米軍のB29爆撃機が、硫黄島から日本本土へ出撃することになりました。
広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」も硫黄島を経由していきました。
硫黄島で発見された無線機の記事
硫黄島地下壕で発見された無線機(発電機)
地下壕の無線機の近くで、日本兵の遺骨が 1 柱が見つかっています。
地上に砲弾が着弾し、火炎放射器で地下壕を焼かれても、最後まで通信を確保したのです。
「二宮和也」さんが、出演した映画
「硫黄島からの手紙」が 2006 年から上映され、若い世代の人たちに
硫黄島であった悲劇を伝えることになりました。
監督は「クリント・イーストウッド」です。
硫黄島ではアメリカ兵も多数戦死しました。
アメリカでは「IWOJIMA(いおうじま)」と言います。
二度とこのような悲劇を起こすことのないよう
3 月 26 日、英霊達に感謝と哀悼の意を込め、電信を打ちます。
旧日本海軍飛行機用の電鍵を使用します。
硫黄島では海軍の飛行機もたくさん発着陸しました。
これと同じ電鍵が、島の周辺で、眠っているかもしれません。
「ニッポンハ セカイイチ ヘイワデ ユタカナ クニニ ナリマシタ ヤスラカニ」
「セカイヘイワヨ エイエンナレ」
【情報 TNX】旧日本海軍の電鍵 - JH1LHVの雑記帳
【情報 TNX】終戦記念日 2024 - JH1LHVの雑記帳
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今回、JH7VHA の柴田さんからご提供いただいた「硫黄島の戦い」に関する記事を掲載しました。この記事を通じて、戦時中の通信兵の役割や無線通信の重要性について改めて考える機会を得ることができました。
私たちアマチュア無線家は、平時においても通信技術を研鑽し、緊急時には社会に貢献できるよう備えています。戦時中の通信兵の奮闘を知ることで、現在の私たちの活動にも通じる部分があることを実感しました。
最後に、貴重な記事をご提供くださった柴田さんに心より感謝申し上げます。また、この記事を読んでくださった皆様にも御礼申し上げます。
柴田さん、改めてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
命を懸けてこの国を守ってくださった方たちへの感謝を忘れてはいけない